History荒木板金工業所の歴史
荒木板金工業所 創業78年の歴史
始まりは『梵鐘』の供出
荒木板金工業所の創業者の生家はお寺でした。戦時中に日本国政府の意向に従い、お寺の象徴である『梵鐘(ぼんしょう)』いわゆる、釣鐘を国に供出しました。
終戦になりお寺でありながら『梵鐘』を供出したことに対して評価され、国から払い下げられた亜鉛鉄板3×6尺板を2千枚が提供されました。この亜鉛鉄板を元手に荒木板金工業所の創業者は『荒木ブリキ店』を創めました。
『 荒木ブリキ店 』の繁栄期
戦後直後は物資不足により何を作っても売れる状態で、水汲みバケツ、如雨露(じょうろ)、洋服収納用の行李(こうり)、アイスキャンディーの型などの日用品から雨樋部品の(軒樋、竪樋、エルボー、アンコーなど)をブリキで製作していました。
長崎市内から炭鉱で賑わっていた離島の崎戸町に引っ越し、そこで業務を拡げて、屋根・外壁工事を行うようになり、売り上げもうなぎ登りでお店は繁栄していきました。
元請けの倒産と親会社の裏切り
昭和33年に、長崎で大手建設会社だった元請けの倒産に合い、現在の金額で約2千万円が未回収になり店を閉めることになりました。
翌年の昭和34年、名古屋へ単身で上京し、名古屋市西区の板金会社で下請けとして4~5年必死に働き当時の金額で数千万円の金額を親会社の口座に貯めていました。ようやく家族を名古屋呼び寄せた矢先に、親会社の社長が全財産を持ち逃げしました。そこから住む家もない状況で、小学生4人・中学生1人の家族7人のどん底生活がはじまりました。
どん底から這い上がった高度経済成長期
家族7人のどん底生活中、創業者は現在一部上場している三晃金属工業株式会社の名古屋支店長と知り合い、施工業者として数多くの新工法の屋根、外壁工事を行いました。また、高度経済成長期にはトヨタ自動車の発展と共に、豊田市に借家を借りて、足掛け2年程トヨタ自動車工場の新築工事を数多く行う忙しい日々を過ごしたそうです。
そして先代や家族皆の頑張りで、昭和40年には自宅で東京オリンピックをカラーテレビで見ることができるまでになりました。
名誉ある皇居新殿工事への参加
昭和43年には、皇居(新宮殿)工事に参加することになり、全国より名工と呼ばれる職人60人が集まった中、荒木板金工業所からは3名参加しました。洞筒瓦棒の機械は皇居の屋根工事の為だけに製作をし、工事終了後は同じものが製作できないように機械を解体した逸話が残されております。
飛躍の種『R-T工法』との出会い
先代は40年前頃三晃金属工業株式会社がステンレス板を使った新しい『R-T工法』をスウェーデンからパテントを取りその工法に取り組むこを宣伝しました。当時、豊田市で最初の工事があり施工業者に工法を習得する為工事への参加の連絡がありましたが、あまりにも手間がかかり殆どの施工業者がギブアップする中、先代は今後この工法が主流になると思い、荒木板金工業所の職人全員を一か月参加させました。その甲斐があり職人全員が工法を習得する事が出来、海外プロジェクトや最新の工事現場に参加することができ、会社を大きく飛躍することとなりました。
確かな先代の先見の明
その後、荒木板金工業所の技術が評価され、競合会社やステンレスメーカーから協力の打診が数多く有り、バブル期ということもあって、役所や大型物件が3~4年先まで受注しており、全ての工事が先代の読み通り、ステンレスの新しいR-T工法でした。
荒木板金工業所の技術を見込まれた災害復旧工事
令和元年に愛知県一宮市に非常に複雑な形状の物件があり、施工できる業者がなく弊社に施工可能かの打診がありました。
受注を躊躇いましたが、息子の強い希望もあり、「荒木板金工業所であれば、出来ます」と返事をし、光明寺公園球技場復旧プロジェクトのお話を受ける事となり、これを機にまたお仕事をする事となりました。
荒木に葺けない屋根はない
金属屋根の発展を担ってきた荒木板金工業所は、これからも先代から受け継いだ、技術・経験・知識を3代目の息子に継承し、難しいプロジェクトから一般の屋根まで「荒木板金工業所に施工できない屋根はない」と胸を張り、荒木板金工業所はこれからも成長し続けます。